規則性を見つけることも記憶術

当ブログは当サイトのトップページの規則に基づく損害賠償請求対象情報です。
当サイトのトップページをご覧になっていない方は、当サイトのトップページの規則をご覧の上、当サイトのトップページの規則を遵守し、当ブログをご覧になってくださるようお願いいたします。
トップページの規則を破りますと、損害賠償請求することになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

現行の方法論だと、対文章式記憶術はランダムに与えられた単語に対して、それがまとめると“何を”示しているか?という観点から規則性を見出しています。

しかし結構昔に言ったように記憶術はこれだけではないのです。
つまり“何”だけではなく、“なぜ”の記憶術も存在していておかしくないです。
また、“類似”していることでも、記憶術は作れるし、“どういう規則”に則ってそれが出現しているのか?というIQが高い人が得意そうな記憶術も作れます。

今回のピックアップは“どういう規則”に則って、ランダムに出てくる単語が出現しているか考える記憶術です。
一見矛盾しています。
つまりランダムなのに規則性を見出すという矛盾です。

でもどんなにランダムに出てきても、その一部には規則性が存在していることはボブの経験上あるのです。
しかもランダムに出てくる単語に、ある一定の範囲で変換できるとしたらどうでしょうか?
その方法が今のところ対文章式記憶術の副産物である集合内変換です。
例えば「生命、自由、幸福」という三単語があったします。
これを生命=lifeでlifeとplay,japaneseも一つのパーツを表し、集合を作っているとボブは考えます。
このことから、生命は「遊ぶ」という単語に集合内で変換できると考えます。
同様に幸福も、showという単語に変換できます。

このことから、「自由に遊ぶショー」という場面をイメージします。
このように無理やり単語を変換して、規則性を与えることが対文章式記憶術ではできます。

それでも「どのような規則」に則ているのか?という記憶術には程遠いので、より暇なとき考えたいです。

連想は言葉に宿るのか?それともイメージに宿るのか?

当ブログは当サイトのトップページの規則に基づく損害賠償請求対象情報です。
当サイトのトップページをご覧になっていない方は、当サイトのトップページの規則をご覧の上、当サイトのトップページの規則を遵守し、当ブログをご覧になってくださるようお願いいたします。
トップページの規則を破りますと、損害賠償請求することになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

連想は言葉に宿るのか?
それともイメージに宿るのか?ということを考える気になった。
なぜそんなことを考えたかというと、分離脳の実験や思考はなぜ自由なのか?ということを考えてたら、気になりました。

だってだって、思考って自由過ぎると思いませんか?
思考のように出し入れ自由な想起って、類をみない気がします。
その種が連想ではないか?と疑ったわけです。

で、結局連想は言葉に宿るのか?
それともイメージに宿るのか?
これは答えはどっちにも宿るみたいです。
そんなの当たり前じゃんとか、思っているそこのあなた!
それがたぶんほとんどの人がやっているのは、言葉に宿る連想の方だと思われます。
なぜそんなのがわかる?と言う方がおられるかもしれません。
でも実は言葉に宿る連想とイメージに宿る連想はどうも違うみたいです。

それでは何が違うのか?
それは言葉の連想の方はイメージがドンドン変わるのに対してイメージに宿る連想の方が“イメージがドンドン、形が変化する”という違いがあります。

簡単に言えば、リンゴ⇒ミカン⇒オレンジ⇒ジュース⇒水などが言葉に宿る連想です。
しかしイメージに宿る連想は、リンゴ、から枝が生えてきて、太い幹を作って、雲まで伸びて、豆の木みたいになって、、、というようにドンドン形や状況が足されていくという特徴があります。

実際に確かめたことはないのでわかりませんが、たぶんほとんどの人が言葉に宿る連想の方を使っているのではないでしょうか?

連想対称性は物語性に宿るのか?

当ブログは当サイトのトップページの規則に基づく損害賠償請求対象情報です。
当サイトのトップページをご覧になっていない方は、当サイトのトップページの規則をご覧の上、当サイトのトップページの規則を遵守し、当ブログをご覧になってくださるようお願いいたします。
トップページの規則を破りますと、損害賠償請求することになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

連想対称性とはAからBという連想が存在するとき、BからAという連想は必ずしもできるとは限らないという欠点を補う方法です。
そのとき用いるのが、AとBという要素が存在している物語性と位置です。

ここで今回重要になってくるのが、この対称性は物語性の付与によって起きているのか?
それとも場所の位置に対称性が付与されているのか?
ということです。

物語性を付与すると大体が場所も存在してしまっているので、物語単体での調査は難しいのですが、物語性だけ付与して、周りを黒塗りにする方法を用いて検討してみることにしました。

場所単体の検討に関しては、場所に要素となるイメージのみを置いて、どうなるかみて行きたいと思います。

場所法はなぜ最強なのか?

当ブログは当サイトのトップページの規則に基づく損害賠償請求対象情報です。
当サイトのトップページをご覧になっていない方は、当サイトのトップページの規則をご覧の上、当サイトのトップページの規則を遵守し、当ブログをご覧になってくださるようお願いいたします。
トップページの規則を破りますと、損害賠償請求することになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

場所の特徴として、位置と広さを持ったイメージというものがあります。
普通イメージは位置もないし、ある程度の広さしかない。
その上、場所にはルートであれば連続性が備わっています。
そこに切れ目はない。
さらに情報量が多く、曖昧に記憶していることが多いという特徴も存在しています。
その点で場所のイメージというのは、普通の物などのイメージと比べると特徴盛りだくさんです。

これらの特徴が備わっていれば、普通のイメージでも同様の効果をもたらすことができると考えられます。
が、自然に統合された姿でこれを実現するのはなかなか難しいと思います。

この特性が仮にものなどのイメージに適用されると、かなり覚えられることになるだろうと思います。
もしかしたら、子どもは場所=もののイメージという形で区別されない可能性があることから、もののイメージに対しても場所の特性が適用される可能性があるのではなかろうか、などと考えてしまいます。

それはそうと、隣り合うAという広さを持った場所とBという広さを持った場所が存在するとき、AとBという広さを持った場所の重なり部分、A∧Bの部分ではAとB両方のイメージが想起されることになります。
そうして連続している場所A、B、C、D・・・というのは、連続的に想起されるようになるのでしょう。
仮に広さを持っていないと仮定すると、このような連続性はあり得ません。
また位置によって場所が区別されていることから、混乱することが少ないのでしょう。
仮に位置Aという一つの記憶であると考えても、上述の連続性から、あたかも大容量の記憶があるように思ってしまいます。
その上、多情報であるにも関わらず、曖昧に覚えても全然いい情報として取り扱われることから、記憶しやすい情報でもあります。
そのため、少ない回数で覚えれる気がするのでしょう。