連想数と連想内容による情報の記述

連想数とは例えばリンゴ→バナナ→ミカンといった形で連想したとき、リンゴを1としてバナナで2、ミカンで3と数えていく方法です。
このとき内容はいかようにでもいいと考えます。
ようするに連想したイメージの数が問題となり、そのイメージそのものは何でもよいという考えです。
結論だけ言えば、この連想の数で情報を表そうということです。
この連想の数をこれから“連想数”と述べることにします。
例えば連想数が1であればリンゴ、2であれば「is」、3であれば「the」といった情報を表すと決めておきます。
そうすることで、連想した数がそのまま文章の記憶になるという考えです。

ただしこの方法だと莫大な数に対応した単語とかになると、全然連想数で表せないのは自明です。
例えば連想数が1000個の単語なんか、あったとしても1000個も連想することができません。
結局これを解決するのが連想内容です。
つまり1~10の間の連想は全て「魚」に関することとして、11~20の間の連想を全て「虫」に関することにするなどして連想します。

こんな方法どこから思いついたのか?
この方法の根拠はどこなのか?気になるでしょう。
それは自閉症の人たちの色んな物を直線状に並べる遊びからです。
彼らには2つの説をボブは持っています。
1つはこだわりから来る整理の仕方があり、その整理の仕方によって、情報を整理するために最強に近い記憶力を持つに至ったとする説です。
この整理の仕方が何なのかが実に知りたいところではありますが、ボブの中では有力な説の一つです。
2つ目は今回述べた連想数を軸にした情報記述体系です。
つまり鎖型の連想を次々にすることで、その連想内容はあまり考慮せずに連想した数によって情報を表すというものです。
これはボブが自閉症の人たちがこだわりの整理と関係ないと考えた場合のもう一つの説です。
ボブの中では有力ではないけど、面白い試みの一つとして残してある説です。

さてみなさんこの2つ目の連想数を使って、情報を表しているとする説を聞いて「そんなの無理だよー」と思った方多いのではないでしょうか?
なぜ無理と考えるかボブはわかっています。
それは連想の鎖が実に簡単に断ち切られてしまうものだからです。
鎖型の連想を長く続ければ続けるほど、忘却のリスクは高まります。
よって連想数で情報を覚えるのは無理と考えたくなるところです。
しかも1~10を「魚」の連想にする?
そんなこといちいち考えて連想なんかやってられるかよ!とも思うわけですね。

これにボブは勝算なく言っているわけではないのです。
今回の発見は、連想の仕方を変えるだけで鎖が断ち切られにくくなるというものです。
それは以下です。

リンゴ→リンゴの茎の部分→木→木の葉っぱの部分→イチョウ→イチョウの葉っぱの部分→オノ

こうするとイメージが消えにくくなるのかな?とまだ実験中の段階ですが、理論上消えにくくなるのではないかとボブは思っています。
これが何をしているか抽象的に書くとこうなります

A→Aの部分→B→Bの部分→C→Cの部分→D→・・・・

ということです。
Aから連想するときにAの部分に注目して、Bを連想します。
次にBの部分に注目してCを連想します。
同様にCの部分に注意してDを連想します。
これを繰り返します。

なぜこれが連想の鎖を強化するのか?というと、普通に連想した連想の鎖は、
A→B→C→D→・・・
となります。
もし仮にBからAとCを思い出したいとき、BはAとCの両方と関連付けられていることになります
やってみればわかりますが、例えばXにYとZとWという3つの情報を関連付けると想起しくくなります。
つまりリンゴにハサミと豆腐と車を関連付けた場合、リンゴからその3つを思い出しにくくなります。

そこでその3つを覚えるためにリンゴから3つの特徴を抽出して、その特徴と一対一の対応を作ります
リンゴの茎の「部分」はハサミで切られた。
リンゴの皮の「部分」で豆腐を包んだ。
リンゴの底の「部分」で車をへこました。
このようにリンゴの「部分」と関連付けることで、情報同士を一対一対応させて、思い出しやすくするのです。

これは連想でも同じで、一対一対応させた方が鎖が強固になります。

でもこれがわかっても「うーん。。でもやっぱりまだ消えやすいよね」というと思います。
そこでボブは反対のことを考えました。

ドーナッツ→ドーナッツを売っている場所の周辺→花→お墓に花を添えている風景→石→モアイ像のある島→山→富士山の樹海→死体→病院の死体のしまってある所→レクター

という感じで反対のことを考えました。
何が反対かわかりますでしょうか?
上述ではイメージの部分にピントを当てていました。
しかし今回は抽象的に言えば以下です。

A→Aの周辺状況→B→Bの周辺状況→C→Cの周辺状況→D→・・・

という感じです。
ようするにAからAの「全体」、使われている状況などを連想し、その状況などに存在しているモノのイメージをピックアップしてきているということです。
先ほどはAの「部分」に焦点を当ててたのが、今回はAの「全体」に焦点を当てました。

この違いは全てのイメージに「場所」を与えることができ、結果連想の鎖が断ち切られにくくしています。
これが開発できたので、ボブは連想数による情報の記述ができるのではないか、と考えました。

またもう一つの問題として1~10は「魚」に関する連想としていましたが、実際は連想の最初のイメージが魚であればよいと考えています。
つまり連想数5の情報を表したいとき、始めの連想数1が魚であれば次の連想が何であってもいいわけです。

今のところ連想数で情報を記述する方法はここまででです。

場所法熟練者を考察し、新たに記憶術に応用(できるかも?)

高IQの人が場所法を熟練しやすい理由。
高IQの人はどうやら類推などの能力があるようだ。
そのためか、高IQの人はかなり飽きっぽいようでもある。

なぜ類推などの能力が、飽きっぽさにつながるか?というと、全てのことが“類似”しているように見えるからだとボブは考える。
ボブはここで類推能力というより、類似探索能力の方をピックアップしたい。
たぶんこの能力は類推と深い関わりがあるし、類推よりは簡単だと思われる。

この類似探索能力がたぶん高IQの人の熟練しやすい理由なのではないか、と仮説っている。

場所法熟練者は物語法と深い関わりがある説
場所法熟練者はその場所に置く、という単純な行為によりイメージを定着できるらしい。
しかしボブはこの置くという行為に、物語法的性質が存在しているのではないか、と仮説っている。
メモリースポーツのアスリートたちが述べていることでボブが興味深かったのは、場所法の場所とモノのイメージの捉え方だった。
メモリーアスリートがいうには、場所を順々にイメージしながら、順々にモノのイメージを観ていくだけらしい。
ニュアンスから、置くというより同時並列的に場所とモノのイメージを観ているぽい感じがした。
そして想起の際は場所を想起し、そのとき観ていたモノのイメージを思い出す感じとのことだ。

もはや置いてさえいないのか?!と思った。

このことからどうも場所と関連付けている、というよりはまさに順番に場所とモノのイメージを観ている私の自伝的物語を作り出し、想起しているようにボブは思った。
自伝的物語法は、ボブにとっても意味のわからないもの。

物語法自体に効果があるのは記憶術を使ったことがある人ならばだいたいわかるだろう。
だが、なぜ日常ではこの物語法のような効果が起きないのか?がわからない。
ようするに物語法には効果があるが、人生という物語にはどうしてこうも物語法と同様の効果がないのか?ということ。
もし仮に日常でも物語法と同様の効果を得られた場合、かなりその影響は大きいものだろう。

ここで場所法熟練者はきっと場所法を使う際にこの自伝的物語法なるものを開眼しているのではないか、とボブは疑っている。
その理由は先ほど言ったように、場所法がもはや場所法じゃないからだ。

場所法と対文章式記憶術パーツの共通点と相違点
場所法がなぜ速く想起できるようになるのか?というのは対文章式記憶術パーツのイメージがなぜ速く想起できるのか?という点と似ている。
何が似ているか、というと場所法も対文章式記憶術パーツも連続性を持っている。
連続性とは次に何が来るか?ということが前のイメージの状態から即座に連想できるということ。

でも相違点もある。
対文章式記憶術パーツでは全体が全てわかっている。
しかし場所では部分的な範囲でしか様子がわからない。
様子がわからない所は、移動していくことで連続性から思い出される。
だが、このときでさえ場所の全てを頭に思い浮かべているわけではない。
そういう違いがある。