ボブが「対想」と呼んでいる現象がある。
対想とは直感的な連想をしたときに、例えばリンゴ⇒丸いは連想しているので成り立つことはわかる。
しかし丸い→リンゴは必ずしも想起できないことがわかるだろうか?
リンゴ⇒丸いは連想したことによって次回も連想すれば成り立つこともあるだろうことが予想される。
が、丸い→リンゴは意識的に丸い→リンゴという想起をしたならわかる。
でも普通しない。
たぶん事前にテストして、丸いから連想されるものをいくつか書き出してもらったとしても、最初にリンゴが来る可能性少ない。
それなのにリンゴ⇒丸いを連想させた後に、丸いから想起される(あるいは連想される)ものは何か?と問われれば、最初にリンゴを思い浮かべる人が多くなるのではないか?とにらんている。
これが情報が対のように成り立つ想起、つまり対想だ。
この対想は連想の性質であるように思う。
つまり連想はその人が前持って得た予備知識や事前情報に左右されるということ。
また連想自体が子どものときの言語習得能力を支える一つの柱である可能性がある、と思っている。
その理由として子どもの言語習得時の対称性バイアスが対想のシステムに似ているから。
対称性バイアスとは、「リンゴ」というイメージや物をみせて、これは「りんご」だよ!と学習したときに起きる現象。
普通、リンゴのイメージ→りんごの音というように学習した場合、りんごの音→リンゴのイメージというような学習をしない限り、逆の対応付けは学習しない。
しかし子どもはリンゴのイメージ→りんごの音を学習するとりんごの音→リンゴのイメージというのも勝手に学習してしまう。
このことを対称性バイアスと呼んでいる。
これはボブが作った言葉ではなく、ちゃんとした心理学用語だ。
これは非常に連想の対想現象によく似ている。
もしかしたら、子どもが対称性バイアスを持つのは、連想の対想現象を利用しているからではなかろうか。
子どもは大人のように、情報の一部分を切り取って来て連想することはできないのではないか。
そう考えると子どもは情報の塊ごと思い出していると考えられる。
連想するときもりんごの音→リンゴのイメージを「りんごの音が存在している状況→リンゴの物が存在している状況」を連想しているのではないか。
そう考えている。
そう考えると連想ってもしかして単語や単語に沿った単一のイメージばかりに起こるのではなく、大量の情報を含んだ情報の群れでも起こるのではないか、という希望の光が見える。