自伝的記憶について

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Twitter上でもつぶやきましたが、HSAMの人は自己の介在していない記憶に関しては忘れる傾向にあるらしいです。
でも考えてもみてください。
自己の介在していない記憶なんて存在しているのかな?
答えはNO!です。

確かに世の中には意味記憶や本の自分の存在しないストーリーなどなどは存在しますが、全て「自分」という五感を通して処理しているはずです。
なのに、自伝的記憶じゃないから忘れるー。
あり得ないですね!

つまり彼らの言っている自伝的記憶ではないものというのは、少なくとも「自己の介在いない記憶」ではないということです。

彼らに存在していると思われるのは、相互反応性と言えるものだと思います。
相互反応性とは、自分の反応と周囲の何かの反応が相互に起きることです。
彼らはきっと自己を記銘、想起の起点としているのだと思います。

つまり普通の人は、「外で見た景色を記銘し、想起しよう」とします。
けれど、HSAMの人は「自己の内面や身体的感覚などを記銘し、そして外のことと結びつけて記銘しようとしているのでしょう。それは想起のときも、まず自己のそのときの内面や身体的感覚を想起し、そして外のことを想起しようとしている」のだと仮説ってます。

つまり普通の人が外の情報を起点としているのに、彼らは“自己”を起点として記銘、想起しているのだと思います。

こう考えると彼らはメタ認知を駆使して、自己の内面の微妙な変化をすくい続けているのだろうと思います。。。

自閉症から来るサヴァン症候群に習う記憶術(再考)

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前のブログで整理の仕方を提示したのを、ボブはうろ覚えしています。
しかしやっぱりスッキリしない結論だと思い、また再考することにしました。
そう、ボブにはサヴァン症候群のことを考える波があるようなのです。
そして今日はそれが来てしまいました。

さー、ではどのようにしたら、彼らに近づけるのでしょうか?
はっきり言って、ボブにはわからない。
けど、わからないなりの無駄なあがきをしてやりましょう!

①ネテロ式記憶術をしている可能性がある
②拘りを持った情報の配置をしている
③情報の接着剤的役割を果たす“何か?”がある
④自己の経験的物語で全てを解釈する

という4つを挙げることにします。

ここからの彼らはボブの予想です。
例えば「花を食べるために、公園に散歩に行く」という文章があったとしましょう。
彼らはまず花=花屋の花を指さす母親の姿、食べる=8時の食卓にあるマイスプーン、公園=14時にいつも通るルート、散歩=12時に太陽が光っている玄関外の風景
というように解釈しているとしましょう。

このような情報を
サヴァンの方たちは何か自己の経験で解釈しようと試みているのでしょう。
ボブの場合、公園にピクニックに行った経験を参照します。
つまり、「太陽が光っている日に、いつも通るルートの傍で、マイスプーンを使って指さす母親と一緒にピクニックをしている」情景を思浮かべました。

このように一個一個の情報に拘りを持っていて、それが複数個に及べば、その拘りの一つを組み合わせて情景を構成することができます。
さらに彼らはきっと、このような寄せ集めの拘りを繋ぐための“儀式”を持っているのではないでしょうか?
例えば花の代わりに、タコさんウィンナーがあり、それを持っているとか、いつも通るだけの道なのに食事をしているので、代わりに正座しているとかなどなど代わりの儀式を入れることで、彼らは情報を接着しているのではないでしょうか?
当然それらの一つ一つの情報は拘りを持った配置になっています。

対象の極大と極小

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実際理想的な記憶術に使える場や空間などは、一つの場や空間に大量の情報を置くことができるものだと思います。

さらにこれに加えて、記憶術で生み出したイメージと、そのイメージを置く場所や空間が“似つかわしい”ことだろう。
似つかわしいと言ったが、これはドーナツであれば、そのイメージを置く場所はドーナツ屋であればより強固に思い出せるということです。

これを実現するために、今日考えたのは、自己介在性とも言える自分を基準としたモノや場所の広さや大きさの固定した観念をどう崩すかです。

一つ実験したのですが、自室に実家の外観をミニチュアのように再現した場合、この場合実家の大きさに影響されて自室が広く見えるのか?
それとも、自室の大きさに影響されて実家が小さく見えるのか?
を考えました。

結果は自室の大きさに影響されて実家が小さく見えるということでした。
この結果が示すのはたぶんミニチュアのようなものは想定できるが、大きなジオラマは想定できないということだと思いました。

他にも自己を基準としているので、自己の大きさを変化させないと意味がないというものです。
ここで自分の視点を極限まで低くするとオモシロイことが起きます。
それはさっきまでミニチュアのように見えていた実家が、本来的なイメージになり、自室が巨大ジオラマ化するということです。

でも結局自室を巨大ジオラマ化を安定させるには、この低い視点で周辺を散策してイメージを安定させる必要がありました。

ここでいくら巨大ジオラマ化できるって言っても限界の巨大さみたいなものが存在しているのもわかりました。
たぶんイメージでは再現できない部分が多くなるからだと思います。
この曖昧性ももしかしたら上手く使えるかもしれませんけどね。

空間実験

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空間を実験してみよう!
と、思って空間のいじれそうな所を発掘して実験にかけるということをしてみています。

で、まず最初に実験してみたのは、数学でいうところの“無限小”の実験です。
これが成功すれば全てのモノのイメージに対してこれを使い、モノ、それ自体が“場”の役割を持たせることできるかもです。
で、どういう実験かというと、場所を無限に小さくしていくと、一体全体どのような性質を帯びるのか?というものです。

それでやってみた結果自分が観測した限りでは位置の情報が潰れます。
と、言っても例えば自室の真ん中より少し横に、バナナを置きます。
で、自室を無限小にしていきます。
すると、自室とバナナの大きさが同じぐらいになるときが来ます。
このときバナナは全力の部屋の位置情報全てを使って対応付けられます。
そして、そのまま自室を無限小化していくと、今度はバナナを場として自室がそのバナナの位置に存在しているという状態になります。

ここで思ったのは、バナナと自室は互いに位置の情報を出し合って関連付けられていたんだな~ということです。
つまりあまり意識しませんが、部屋にバナナがある状態ではバナナの全部の位置を出して部屋の一部の位置と関連付け合っているということです。

ともすると、簡単に言えば、上手く行けば、例えばバナナの半分の位置情報は自室に対応付け合っている状態にして、残り半分はどっかの道端に対応付けるということが可能なのではないのか?と思いました。

ところで、モノのイメージを“場”として使う場合にネックになる要素もわかりました。
それは“自己の介在”です。
例えばバナナだったら“自分”の手の平で握れるぐらいだ、と言った意味のわからない“常識”みたいなものがあります。
自室は“自分”の大きさから割り出した大きさがあったりします。
つまり“自分”を通して考えた大きさが固定観念として存在してしまうようです。
これを捨てる術はないのかも、模索するかもです。