場所法は抗力のみでは成り立たない

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空中を場所法で使う場合に、見えない空中に力がかかった場合、反作用を起こし、手ごたえがないと空中にモノのイメージが置けない、ということを言ったと思う。
つまり空中にモノのイメージを設置した場合に、がっしりとした設置した感覚がないと、記憶が不安定になりました。

だけれども、もし抗力のみで場所法が場所法たるんだったら、そもそもモノのイメージを場所として利用し、モノにモノを置くという状況がいとも簡単に生まれると思います。
でも、それはそんなことはできません。

なぜならモノの空間的性質は場所よりも小さいからです。
しかしながら、この小さいとか大きいとかがそもそも対比であって曖昧なものです。
そのためここにつけいる隙があるとボブは考えました。

例えばこんな状況はどうでしょうか?
「実家の隣に巨大なドーナッツを置いた」場合です。
この場合は巨大なっと言っているので、ドーナッツも場所として使える可能性があります。
では、こんな文だったらどうでしょうか?
「ミニチュア化した実家の隣にドーナッツを置いた」場合です。
この場合、ドーナッツを場所として使えそうでしょうか?
この場合は難しそうですね。

ただし、注目してほしいのはイメージとしてはほぼ一緒のものをイメージされたのではないでしょうか?
つまりボブが言いたいのは、これには無意識的な条件が存在しているということです。

ボブが考えた無意識の条件とは、
①比較するための大きさがある
②自身の体との対比を無意識にしている
③視点(見上げる、または見下げる)

というものがあると思いました。
これが示唆しているのは、状況によってイメージの性質が変わることがあるのではないか、ということです。

デカルト式場所法と自伝性

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デカルト式場所法を研究していて思ったことがあります。
昔自己介在性という言葉を使って片づけたことです。
しかし再度再考したいと思います。

どういうことか?
場所を要素に分け続けましょう。
例えば自分の自室を3×3マスに分けましょう。
このとき、場所としての働きは?
部屋の大きさにもよりますが、ボブの部屋では働いています。

じゃあ、もっと細かく自室を9×9マスに分けましょう。
このとき、場所としての働きは?
ボブの部屋ではわずかにある。
このとき注意してほしいのは、何もない空間に1マスだけ分けた場所を置いたときをイメージしてください。

ここで場所の性質は一つわかりますね。
つまりマス目が狭くなっても、ある程度なら「他のマス目と連続して繋がっている場合」は、場所としての働きを損なわない。
反対にマス目が他のマス目と繋がっていない場合、場合によってはすぐに場所の効力を失うということです。

じゃあ同じことを東京ドームでやってみましょう!
すると9×9マスでも全然へっちゃらでした。

この結果は自伝的記憶の一つの性質を表しているのだと思います。
場所に限定した自伝的記憶とは何か?
これをはっきりさせたいです!

場所法の不思議(主観的視点)

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場所をイメージしているときによく言われるのが、自分の見ている視点を俯瞰視点ではなく、主観的視点にするとよいというのを聞く。
しかしボブはバカなので、そんなのガン無視して自己を斜め真上の所から俯瞰している状況をイメージするように“わざ”としましたw。

結果はやはり通説の通りでした。
俯瞰しているような視点だと場所に配置したイメージが消えやすいという感覚がありました。

ここで不思議なのが、主観的視点になるとなぜ有効に場所が機能し出すのか?という点です。
昔ボブは「自己介在性」という謎仮説を立てました。
でもそれなら、自分が完全に存在しているような客観的視点でも同じようなことが起きると思いますが、それはなかった。

そこで次の矢を用意しました。
それは自己を半透明化して、半透明な自分の少し後ろから主観的視点からみたり、俯瞰的視点からみたりを自由にできるようにしてみようと思いけり。

もし仮にこの場合の主観的視点が上手くいかない場合、それは自分が存在していることに問題があることになります。
反対に上手くいくようなら、主観的視点がそもそも効果の源泉ということになります。

さてどうなるだろう?

対象の極大と極小

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実際理想的な記憶術に使える場や空間などは、一つの場や空間に大量の情報を置くことができるものだと思います。

さらにこれに加えて、記憶術で生み出したイメージと、そのイメージを置く場所や空間が“似つかわしい”ことだろう。
似つかわしいと言ったが、これはドーナツであれば、そのイメージを置く場所はドーナツ屋であればより強固に思い出せるということです。

これを実現するために、今日考えたのは、自己介在性とも言える自分を基準としたモノや場所の広さや大きさの固定した観念をどう崩すかです。

一つ実験したのですが、自室に実家の外観をミニチュアのように再現した場合、この場合実家の大きさに影響されて自室が広く見えるのか?
それとも、自室の大きさに影響されて実家が小さく見えるのか?
を考えました。

結果は自室の大きさに影響されて実家が小さく見えるということでした。
この結果が示すのはたぶんミニチュアのようなものは想定できるが、大きなジオラマは想定できないということだと思いました。

他にも自己を基準としているので、自己の大きさを変化させないと意味がないというものです。
ここで自分の視点を極限まで低くするとオモシロイことが起きます。
それはさっきまでミニチュアのように見えていた実家が、本来的なイメージになり、自室が巨大ジオラマ化するということです。

でも結局自室を巨大ジオラマ化を安定させるには、この低い視点で周辺を散策してイメージを安定させる必要がありました。

ここでいくら巨大ジオラマ化できるって言っても限界の巨大さみたいなものが存在しているのもわかりました。
たぶんイメージでは再現できない部分が多くなるからだと思います。
この曖昧性ももしかしたら上手く使えるかもしれませんけどね。