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サイト管理人の研究過程と開発状況のブログです。

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イメージの世界で長いイメージはどこまで長いのか?

規則対象外

長さと大きさは親戚
どちらも相対的に長さ、大きさが決まる点が類似している(相対的決定)。
しかし比較研究で長さと大きさの違いをまだ研究できいない。
一つ挙げるならば、長さは線であり大きさは面。

両端を視界に入れない場合
片端だけを視界に入れる場合
両端を視界に入れいる場合
で場合分けするといい。

両端を視界に入れず長さを長くし続ける場合は、その線に特徴がなく背景にも特徴がない(形式的線と呼称)とき、長さは同じ線の繰り返しによって長くなったことになっている(形式的伸長)。

十分に長い形式的線の真ん中に特徴をイメージした場合、両端の端をイメージする必要があるのでは
また仮に無限に伸びる形式的線の場合、とりあえす仮の真ん中を設定する必要があるのでは
それは片端だけわかる無限に伸びる形式的線であっても、とりあえず仮に真ん中の設定するのは同じでは

片端からAcmのところに特徴をイメージする場合、端が無限に長かろうがどうだろうが端からAcmの所に特徴を作るのでは

つまりこの2点から考えられるのは、割合と具体値ではイメージの仕方が違うのでは
割合は全体orテキトウな部分が必要(割合の位置)
具体値では片端と大きさのわかるイメージor起点と大きさのわかるイメージでは(具体値の位置)
つまり位置の決め方に具体値と割合の2つの決め方があるのでは(位置の2決定)

いつまでも長い線であっても具体値上では米粒以下である場合があるのでは
形式的長さと具体的長さの違いでは(形式的長さと具体的長さ)
反対に言えば現実と空想でズレを生じさせることができるのでは(イメージの長さのズレ)

形式的線であれば、長さを長くする場合、太さのない線と考え拡大することで長くする場合と、端を伸ばし続けることで長さを長くする場合の2つが存在しているのでは(形式的線の拡大伸長と形式的線の端伸長)

◯◯◯・・・◯◯というようなイメージであれば距離を測れるのでは
繰り返される同じような特徴は曖昧にイメージされるのでは(イメージの真ん中の省略)
個数などは省略されたり増加されたりするのでは(数の曖昧イメージ)
大きさも曖昧では(大きさの曖昧イメージ)

絶対的長さや大きさはイメージの中ではありえるのか?
場所は長さや大きさ、置いてあるモノまで曖昧だから覚えているのでは(場所の曖昧さ)
大きさや長さの揺らぎが常に起きているのでは(大小長短のゆらぎ)

短いイメージはどこまで短いのか?

幅がない形式的線であれば端からドンドン短くしていく(端縮小)と「点」になる(完全点)
幅がある具体的線であれば端からドンドン短くしていくと「正方形」になる瞬間がある(正方形時)
それを過ぎてさらに短くしていくと、具体的線の幅を長さとする線が現れる(線と幅の交代時)

線のある位置に特徴があるとき、ドンドン全体を小さくして短くしていく(形式的縮小)場合と端からドンドン短くしていく場合では特徴の位置を割合の位置で決めている場合は問題ないが、具体値の位置で特徴の位置が決まっている場合、具体値以上を短くできない(具体値の限界)。

形式的縮小の場合いくら縮小しても点にならない(形式的点)
反対に端縮小していると点になるのでは

完全点の性質
忘れやすい
元の線にあった情報を全て消失
覚えているときに形だけ再生できるが形だけの再現であり、点のおかげではない
特徴が点としての特徴でしかない
移動はできる

形式的点の性質
忘れやすい
元あった情報を拡大した場合いくらか持っていることがある
拡大した場合はキッカケになる場合がある
特徴は拡大した場合と点の場合の2種を持っている
移動や加工ができる

イメージの世界で尖っているイメージはどこまで尖っているのか?

規則対象外

拡大し続けると、、、
尖っているイメージ、例えば刀の刃先などをイメージする。
この刃先を拡大し続けると一方の人は何ともない、という人が出てくる
他方で拡大が難しい、という人が出てくる。
これはなぜか?

これは簡単なこと。
例えば△←こんな三角形の頂点をドンドン拡大する。
すると人によっては、ずっと、人によっては延々と拡大し続けられる。
それは△の上の部分を拡大しても、それに相似の三角である△がまた出てくるからだ。
つまり頭の中で形式的な同じ形をイメージしているだけということ。
(名付けるとしたら「形式的拡大」と呼称)

では拡大が難しい人とは何か?
それはもっと現実的に△であっても拡大していくと傷があり、それをイメージしないといけない。
なので、そんなに△の頂点をじっくりみたことがないから、イメージできないと考える人々だろう。
(「具体的拡大」と呼称)

まあこのことからわかるのは、ある人にとってイメージのスケールを操作することは、同じイメージをイメージすることとは違い、違うイメージをイメージすることに等しいと考える。
(「スケール操作によるイメージの同値」と呼称

つまりその人々にとっては、詳細にイメージすることは困難であり、よく覚えていないことやよく知らないことはイメージできないと考える。
(「厳密イメージング」と呼称)

さてここまで色々考えることがある。
その一つはどうやったら厳密なイメージがイメージできるようになるのか?
(厳密イメージング問題)

さらに全く何に使えるかボブにすらわからない「尖っているとは何か?」という定義の問題
これは線の端っこに酷似すればするほど尖っていると判断されるんじゃないか?と思っている。
(線端酷似説)

そしてさらによくわからんのが、尖っているっていう現象って「個体」に言うよな~と思います。
まあボブは固体ばっかりに尖っているの称号を与えるのは、ムカつくので液体、気体でイメージしましたが、結局思ったのは液体や気体に関するデータが少なすぎて、もう何も言えねーみたいになりました。
(「液体のイメージ問題」と「気体のイメージ問題」)

新シモニデスの研究室の開幕

規則対象外

規則対象外の情報と明記しているものは全て規則対象外の情報となります。
予定では今後のブログは完全に規則対象外に“し続ける”と思います。
よっぽど需要のあるものは規則を付けると思いますが、ほぼほぼ規則がない情報となります。

そうこれをもって新シモニデスの研究室の開幕です。

チョー基礎研究の山を築こうと思います。

まだどのような研究が集積されるのかわからないので、カテゴリーは暫定的なものになります。

過去にやっていた基礎研究は受け継いで応用研究は全てスルーパスにします。
また一つ一つのブログ記事は成長させます。
成長させるとは新たにそのブログテーマの知見ができたら、どんなに古かろうとそのブログに書き足すということです。
そうやって書き足して徐々に記事を成長させます。

今のところ、これが方針ですが方針自体も変更される可能性があります。
またわざとわかりにくく書く可能性があるので、そこのところよろしく!!

手話とその意味

書くのは久しぶりです。
でも今回のことは書いてもほぼ問題ないと思ったので、規則なしで書かせていただきます。

まずここで書いたことは思いつきで検証は勝手にしてください。
ボブも勝手に検証していますが、ボブの検証結果は芳しくないものでした。
でも夢があるので、今の現時点ではもう少し検証するつもりです。

この思いつきをした経緯は、「言語なき思考」という結構古い本を読んでて思ったことがきっかけです。
言語なき思考は、生まれ持っての聾者を対象にした研究の話です。

ほぼ全くその研究とは関係なくボブはこう思いました。
生まれ持った聾者の人は、文章を読んだとき、どう文を理解しているんだろうか?と思いました。

普通の人は文を読むと追唱と言って、心の中で文を音声化して読んでいます。
これが速読できる人だとあまりないことが知られていますが、このように音声の言語を介して文の意味を理解しています。

では聾者の人もこの論法で言えば、心の中で手話をして文章を理解しているのではないだろうか?ということになります。
ここでボブは二つの説があると思います。
それは心の中で手話をするとして、視覚的な情報として手話しているのを見ている場合と身体感覚として手話しているのを感じている場合とがあると思います。

どちらの場合が正解なのか知りませんが、ボブは手話しているのを見ている場合は、じゃあ今度はどうやって文章の情景を理解しているのだろうか?と思いました。
そう考えると手話のイメージ化をしながら、同時に手話が指し示す情景をイメージ化していることが可能であるということになります。

そこでボブは対文章式記憶術のパーツを組み合わせながら、そのパーツが指し示すイメージも同時に情景としてイメージするように訓練し始めました。

で、今のところの手ごたえは情報量が膨大すぎてむしろ忘れる、というところまではわかりました。
しかも同時にやっているわけではなく、少し時差があってその二重イメージ化をやっています。
はっきり言って旗色悪すぎます。
でもやっているのが面白いので、まだ続けていきたいと思います。
飽きたら辞めますww

部分忘却を目指して(規則対象外)

久しぶりにブログを更新しようと思います。
そしてこれも規則対象外としたのは、どうせこれを読んでいる人は対文章式記憶術に手を出していないだろうし、そもそも現在ボブが使っている対文章式記憶術のイメージとトップページにある旧式の対文章式記憶術のイメージとは違うものだからです。
つまりパクリようがないからです!w

さてボブが旧式の対文章式記憶術の懸念としていたもっとも苦々しい出来事は、まとめた一つのイメージが一斉に忘却してしまうということです。
なぜかはこのときわかっていませんでしたが、とりあえすまとめたイメージが一斉に忘却するのです。

そしてこれと共にイヤな現象だったのが、まとめた一つのイメージの全体像が把握しにくかったということです。
なぜかはこのときわからなかったのですが、全体像をイメージしようとするとどこかがぼやけてしまいました。

それを解決できたのは、全くの偶然なので始めはかなり戸惑いました。
イメージ一つ一つを変えて行った結果偶然一斉に忘却することがなくなり、部分的に忘却するようになったのです。

一斉に忘却することの何が悪いかって?
それは端的に言えば思い出す手がかりがなくなるからです。
この部分に何かあった。
それは周囲のイメージをみれば明らかだ!ということをボブはしたかったのですが、一斉に忘却されるとこれができない。
だから一斉忘却はボブの中では厄介だったのです。

では、なぜ一斉忘却しなくなり、部分的忘却をするようになったのか?です。
それは全体像をイメージしやすいかしにくいかという点と関わりがあるようです。

一斉に忘却し、全体像をイメージしにくかった旧式の対文章式記憶術のイメージ。
それはイメージをまとめたときにプロトタイプのイメージに近くなかったことが問題だったようです。
プロトタイプのイメージは「プロトタイプのイメージ 心理学」でググってください。
新式の対文章式記憶術のイメージでは、どうやら部分部分でプロトタイプのイメージに近しいまとまりというのができ、そのため部分部分で見事に他のイメージとしてチャンク化され、その部分部分の塊ごとに忘却するようになったようです。

そんなこんなで、部分部分で塊を作るようになったことが、全体像をイメージもしやすくなったようです。
旧式では、全体像のイメージが認識の限界量以上の数でイメージされたため、イメージしくかったようですが、新式では上手くチャンク化され、認識の限界量をあまり超えない形でイメージできるようになったようです。

そんなこんなで今新式を実験中です。